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■庭師への扉 〜小宇宙との出会い〜
バリ島での2年間が庭師への扉を開いた。バリ島の古典芸能も、日本の伝統芸術も、日常生活と逸脱した別世界(別宇宙)を造り上げたものである。さらに「庭」の世界は日常の生活に限りなく接近し交差する中に存在しながらそこに独特の別宇宙を造っている点がバリ島の芸能宇宙に酷似している。私たちの生活とそれが肩を並べてすぐそこに当たり前に存在する。しかもその宇宙内では独自のルールがあり、そのルールが眺める人に「安定」を提供している。
いま眼前で眺めている当たり前に「こういうもんだ」と思われる庭の石組、植木たちの大きさや間隔。飛石や敷石。これらが突然ニューヨークの街中あるいはインディアンの集落の真ん中に忽然と現れたらどうだろうか。おそらくその部分だけ明らかに別空間である事が際立って見える事だろう。つまり「庭」という空間表現は、ある共通のルールに従って遊ぶ完全に独立した小宇宙なのである。
バリ島のワヤンという影絵芝居あるいはガンブーという古典芝居の振りや動きは、初めて観ると異星人の奇妙な動きの様でとまどうが、観賞しているうちにどんどんその世界に引き込まれて行き、いつの間にかその奇妙な動きも不自然で無くなるのを感じる。つまりその小宇宙の秩序に入り込んだのである。その秩序(ここではルールと呼ぶ)を土台に様々な道徳や説教を人々の精神の奥底へ染み込ませる手法である。ところがこの手法は造園の世界にも使われている。禅宗において庭石の配石や植栽等を通して悟りへの指導をする事も。また茶庭に於いては、狭いわずかな空間を庭のルールによって奥深い山奥の世界に見立てる事もまさに小宇宙だからできる事。
私は日本に見る庭の世界にとても惹かれた。現代の社会ではかつての様な権威の象徴や宗教的な役割も薄くなったが、庭のルールは無言のまま私たちの無意識下に健在である。欧米からの影響やまたそれらの折衷から新たな様式が生まれつつも、そこには必ず「庭」というルールが生み出す小宇宙が存在する。今では庭師という職業自体、建設業か農業か美術なのか輪郭のはっきりしない曖昧な職業ではあるが、質の善し悪しだけは確実に認識されている。いったいなぜだろうか。人々の中にいったいどんな物差しが存在するのか。確実にルールが生きているのである。目に見える形での答えを無理に求めるには、日本庭園の歴史や定石を研究するより他無さそうだが、そういう方向ではなく、和も洋も富も貧も関係なくただ「良い」とか「美しい」と素直に感じさせる隠された仕組みが存在しているのではないだろうか。私は「庭」という限りなく身近に認識されつつも不透明性が高く奥が深いこの小宇宙に惹かれる。そしてその発端はバリ島での研究からであると改めて認識する。
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